昭和46年03月25日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら柄人筋となって、これが、神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して、神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 どうぞ、日勝り月勝り年勝り代勝りの大みかげを頂かせて下さいと、まあそういう願いを、みんな持っっておりますけど、そういう願いを、させて頂かなければなりません。けれども、させて頂くから、させて頂いたから、そういうおかげが、受けられると云うことではない。そういうおかげを頂かせて頂きたい。ならば、そういうおかげの、頂けれる信心を分からせて下さいと云う、願いのもとに、日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのおかげを願わないけん。
 もう私一代でよか、いや、もうこの事だけおかげを貰や、もうそれでよいと云う様なことではない筈ですね。信心が分かれば分かる程、親の代より子の代、この代よりも孫の代と、それが繁盛のおかげになって行き、子孫が続いて行くと云うことを、本気で願わなければいけません。ですから、そういうおかげの頂けれる信心を分からせて下さい、させて下さいと云うことになる。
 そこで、そういう信心をさせて下さいと、例えばそれをえらい難しゅう考える。難しい信心であったらです、とてもそんな難しい信心はよう子供が受けきらんよくまあ信心の、いわば後継者特に教会なんかに多いと云う事は子供が何人も居っても、お父さんの跡は継がないと云う子弟が、大変多い事であります。私はとても金光様の先生にはならん。何故かと云うと云うなら、御道の教師にでもなるくらいですから。
 熱心な信心しとらなければ出来る事でもありませんし、その信心の熱心さと云うものが却ってですね、子供達にあんな難しい事は、とてもあんな難しい事は俺達には出来ないと云う様なのである。しかもその難しい信心しておって、ほんならおかげでもどんどん、まあ頂いて居ると云うならまだしものこと。あれ程しの信心をさせて貰いながら、云うならば大変難儀な生活をしておると、云った様な状態のところの、教会の子弟がやはり多いですね、跡を継がないと。
 先日ある教会のもう四十五年かの、今年が記年祭に当たると云う。中々人が助からんし、まあ細々とした教会らしい。記念祭が近づきよるのに、まあどうなるだろうかと思われる様な状態の教会の、ここの御信者さんが知って居られましたから、もうそれこそ一心な思いでね手紙を書かれた。それで「おかげの泉」を持って月々送られて、どうでも一つこういう生々とした信心があるから、こういう生々した信心して、生々としたおかげを、教会の上にも輝かせられるような、おかげを頂かれることを祈りますと。
 どうでも一辺、合楽に行ってお話を聞いて下さいと云うて、それこそ懇切丁寧にまあお導きお勧めになられた。ところがそれに対して返事が来た。返事をここへ持って見えて、実はこういう風だ。だからもう一辺手紙を出さして貰う。少し今度は強いことを書いて居りますから、一辺目を通して頂きたいと持って見えた。まあ向こうから来て居る手紙を見、又ほんとに切実に止むに止まれぬ思いで書いて居られる、その手紙を見せて頂きながらね。ほんとにどうしたことだろうかとこう思います。
 向こうの方から来て居る手紙の中に、現在奥さんと二人らしいですね。例えば細々ながらです、細々ながらまあ食べてだけは行きよるわけ人は助からん。それでもそれで自分は満足して居ると書いてあった。もう実にガッカリする。まあガッカリされるならお勧めされた方もそうであろう。「鳴きもえず飛びもえずして不如帰」そういう俳句がその中に書いてあった。これは私の心境ですと云う訳でしょう。
 悲しいことである。この様に有難い生き生きとした道に御縁を頂きながら、しかも教師とまでならして頂きながら。本当に、人の難儀が助かることの為に精進させて頂いて居る筈なんだけれど、人は助からない。もう四十五年やんがて五十年になろうと云うのに、まだその様な状態である。そしてそこに一つの諦観というかね、諦めこれで贅沢しようとも思わない、旨い物を食べようとも思わない。
 成程そう贅沢三昧旨いもの食べようとは思わんでもね、本当に人が助かる事に依って、もちっといわばましな生活が出来ると云うか、金光大神の御比礼に対しましてでも、おかげを頂かなければ相済まん。どうにかしてと云う様な気持ちは起こらないものだろうか。と私は思わせて頂いた。大きな町のまん中にあるたった一軒の教会。その周囲周辺の人が助かったら、大変な御比礼にもなる事であろうけれども。
 例えばそういう状態の是はほんなら、教会と云うことだけじゃないですよ、お互いのいうなら家庭に於いてもしかりであります。お母さんが一生懸命参るけれども、とてもあげん一生懸命参らにゃならん、お父さんが一生懸命修行はしよるけれども、と例えば子供達がそれをあざ笑う軽くみる。そこにはねいわゆる子孫も続きと云う、いわば見通しすらつかない。余りにも信心が厳しいこと難しい事、とてもあげな真似はでけんと云った様な信心ばっかりして居るからじゃなかろうかと思う。
 信心は云うなら見やすいもの。重いものを負うて居るか担いで居れば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ、家業を勤め勤めするがよいと。重いものを担うて居るわけじゃあない。信心は楽じゃと家業を勤め勤めするがよい。本当に信心は楽しかろうごとある。本当に、信心は有難か有難か、やっぱほんとに有難いとじゃろうと思わせられる様な信心をしないからだと私は思う。
 ほんとに家の家内の信心をみとったらです、楽しゅうしてこたえんごとある。もう映画もなからなきゃ芝居もいい、もうそれ以上のものらしい信心とは。そしてやはりお母さんが信心して下さるからであろう、この様なお繰合わせを頂いて、この様なおかげを頂いてと云う様な信心をですね、させて頂くならばね、そういう信心こそが楽な信心だと思うね。歯を食いしばった様にこのおかげを貰わんならんけん。
 一生懸命参りよると言った様な信心を続けながら、おかげらしいおかげも頂けないとするならね、とてもやはり子供がついて来る筈はない。子孫に続く残る筈もない。そしてそこから、諦めの様なものが出来て来てです、只自己満足的な信心の喜び、信心の自己満足的な信心の喜びと云うてもよいでょうね。そういう事では私はつまらない。信心がもっと楽に楽しそうに見えなければいけん。
 又楽しそうに見えるだけじゃない、自分自身がそうあらなければならない。そこでです神の大恩を知れば無事達者でと、子孫も続き身代も出来、私は神の大恩を知ると云う事がですね、本当に神の大恩を知ると云う事が、信心を楽なものにする事だと思うですね。心の何処かにおかげ頂ききらんならば何様も拝むが、又はあすこだけじゃないからと云った様なものがない。
 あそこはえらいこの頃ご比礼が立ちござるげなけん、あすこに参ろうと言う様なものではなくてね。天地の大恩を知ると云うことは、天地のいわば心を知ると云う事でもあろう。いわゆる神の愛神愛を知る神愛を悟る。神愛を悟ると云うことが一番適切でしょうね。神愛を悟る。だから大恩を知れば無事達者で、神の神愛を悟ればです、無事達者で子孫も続きと云うことになると思う。
 同時に神の神愛を悟ってからの信心ならです、信心が楽しゅうなって来る。いよいよ有難いものになって来る。神様なればこそどの様な中にあってもです、神様なればこそと云うことになって来るのですよ。昨日は北野の中村さんのお宅の、毎年何十年続いとります宅祭でございましたから。私と久富先生と二人で奉仕させて頂いた。何時ものことながら、ほんとに真心一杯、真心込めてのお祭りでした。
 お祭りを終わって、後の御理解を頂きました時に、中村さんに聞いて貰ったと云う訳でもないけれども、お参りし合わせとる一同の者に頂いた訳ですけれど、その事をさせて頂いた。中村さんが玉串を奉典されます時に、綺麗な榊にこう師手が付いていますね、紙のふくさに折って切ったやつですね、その師手がね、榊の木から取れかかってのところの玉串を奉って居られるところを頂いた。
 あらと私は思う、だから信心の木だけはしゃんとしたもの、榊の木は立派なものだ。榊と云う字は木辺に神と言う字が書いてある。所謂心が神様所謂信心をね、云うならばして居ると云うことに於いては、言わばしゃんとした信心をして居られると云うわけである。ところがね神の方が外れよる。是はそこの所を例えていうと、又の御理解に神の綱が切れたと云うが神からは切らぬ、氏子から切るなとこう仰る。
 おんなじなんです意味は。神様が離れござると云うのじゃなくてです、それはよく分かるとおんなじ意味なんです。榊はしゃんとしておるけれども、神の方が外れござると云う様な感じでしたから、その事を申しましたね。それこそ中村さん信心度胸なら御用の精神ならば、もうそれこそ合楽きってのいわば信心であり、第一人者だ。ここでは婦人総代として、しかも一番古いご信者さんである。
 それこそ信心度胸なら御用精神なら、誰にもひけは取らぬ、負けは取らんと云う程しのものが生まれて来なければならない。丁度あちらからお迎えに見えた時に、私は神様に、只今から北野に参りますからと、その事をお願いさせて頂いて、大体今日のお祭りの焦点になる中村さんが、これから又次の一年間、次のお祭りまでに一つの焦点として信心を進めておいでられなければならない。
 どの辺のところを頂かれたら良かろうかと思わせて頂きながら、御祈念をさせて貰いよりましたらね。山伏の姿山伏がこういう所へこう寄り掛かってる。いわゆる辛抱強いと言うですか、こうしとるところを頂いた。それを私が腕を引っ張って一生懸命引っ張り起こそうとしておるところを頂いた。今日のお祭りはここのところを焦点にして、まあ中村さんに聞いて頂かなければならんなとこう思うた。
 云うならもう七十五歳と云うて居られましたが、しかも七十五歳のお婆さん矢張り北野から毎朝こうやって朝参りしてみえられる。どん座ってござる段じゃなかそれこそある時には若い者でも適わぬ様な勢い元気で参っておみえる。私はその山伏のそのお知らせを頂いてから、どういう風に思うたかと云うとね、是は矢張り信心を引き立てなければならないと云う事思いましたが、山伏と云う事は私は修行と言う事に感じた。
 山伏と云うのは、非常にあれは山岳宗教ですね。山の中でいわゆる荒行を致しまして、色々修行するらしいですね。それこそ一本歯の下駄を履いて、山をあちらこちらとあちらの峰からこちらの峰へと言う様に渡り歩くと云った様な修行をする訳です。山岳宗教ですね、いわゆるそういう人の真似のでけん様な信心修行は、もう或意味に於いては成就して居られる。昨日も十何年も前の、ほんとに、当時は椛目でしたから、それこそ朝参ったら、又晩参らにゃ居られないと云った様な時代が続いた。
 それこそ誰が何と云うても、火の着いた様な勢いで、北野辺りから沢山の人達が参ってきた。そういう時分に、様々なそういう修行をなさった。だからそういう信心修行は、もう云うなれば或意味で成就して居られる。だからそれではいけないと云うことなんです。云うなら若い者に負けんごと元気丸出しで毎朝お参りをすると云うことじゃない、と云うてまああた、ぬくぬくと寝てから参らんでいいよと云う意味じゃない。
 けれども参って稽古することの焦点が違わなきゃいけないち云うこと。今日のここんところそれこそ、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂きたい。その為に例えばほんなら、お参りしとってもよいが、そういうおかげの頂けれる信心を分からせて下さる。そういう信心をさせて下さいと云う信心にならなきゃいけない。もうそれには例えて云うならば、山伏修行の様な水を被ったり、いわゆる火の行水の行ち云うごたる行ではいけん、形の行ではいけん。
 それこそ楽しゅうして楽しゅうして、有難うして有難うしてと云う修行にならなきゃいけない。それにはねそれにはいわゆる、天地の大恩を知らなければならんと云うこと。それを今日私はもっと適切に云うと、神愛神の愛を知らなければいけないと云うこと。いわゆる神の愛を悟らにゃいけん。神の愛を悟る時にどういう事になるかと云うとです、全ての事があの事もこの事も、みんな神様のおかげを下さろうとする、愛の働きだと云う事を悟らせて貰うと云う事。
 だからもうあれもおかげこれもおかげと、云う様にになれる訳です。中村さんが何年間の、それこそ人の真似の出来ん様な修行をなさってから、御本部参拝をした。ある参拝の時に、奥城で神様から中村キクヨに、キクヨと云う片仮名のキクヨを喜び久しい世と改めよと私がお知らせを頂いて、今日から中村キクヨは喜び久しいと書くが良いと申しました。そしたら中村さんが、はぁ神様ちゃあほんに、見通しでございますねと、私があの様なこの修行さして始めてから、今日が満願の日に当たるち言わしゃった。
 その一つの修行を成就し終えた時に、その満願の日に片仮名のキクヨから漢字の喜久世に、いわゆるそういう一つの御神格に似た様なものを頂かれた訳です。そしてその御理解に、喜の字を無くしたら後は、くよくよと云う御理解じゃった。喜びと云う字を無くしたら、後はくよくよになるぞと、これからこの喜びを持ち続けるのぞと。もう命と云う様な、例えばその山伏の様な修行ではなくて。
 自分の心の中に何時も喜びが絶えない、悔やむだんじゃない人にどん云う段じゃあない、おかげばのと、それもおかげよと云えれる信心。そういう信心はです、やはり日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂きたい。頂きたいからそういうおかげの頂けれる信心を、又は信心修行をさせて下さいと云うて、ほんなら実際にそんなによし喜んでニコニコしとる様なことばっかりあるまいけれども、そこんところを神愛と悟らせて貰い、神愛と分からせて頂いてお礼を云う他はないと云うこと。
 困ったことが起って来ると、あれがあぁじゃけんこれがこうだからと、人のせいにするような事ではなくて、昨日の御理解じゃないけれど自分の心の方へ持って来なければならない。信心の道を訪ね求めれば、己が心に帰していくなりである。神愛を悟らせて頂く時です、あれもおかげこれもおかげと、いわゆる大恩を天地の大恩を分からせて頂く。天地の心を分からして貰う時、初めて頂けるのが神様なればこそ。
 それは叩かれてもそうなんだ、神様なればこそと、いわゆる昨夜から中村さんに求めておられるのはです、御理解の中に求めて居られるのは、今迄のような信心じゃいかん、もっと楽な楽しい信心をさせて頂けと云うことだと私は思うのです。ですから本気でいわば心の行、心行に取り組まなければいけない。思えば思う程有難うなって来ると云う、信心修行に取り組まなきゃあいけない。
 そういう信心に引き立てて行きよると云うお知らせであったろう。そういう信心になる時にです、もう自分の心の中には、神がぴったり寄り添うてござる時です、私共が喜びいっぱいの時には。云うならもう八十の方が近いと云う様な年代で、毎朝朝の御祈念に若い者もにも 劣らぬ程しの元気な心で参って見える。折角ほんならお参りして見えるけん、今日もどうぞ、商売の繁盛のおかげを頂く様に。
 成程願うが良いお商売なさって居られるから。それよりもっともっと子供達が孫達が、この信心を受け継いで呉れる様に、しかも日勝り月勝り代勝りのおかげの頂けれるおかげを頂かせて下さいその為には、今迄の様な信心では代勝りにならぬ。だから代勝りになる様な信心とは私の心の中にです、喜びが久しゅうあると云う事。その喜びがあると云う事。是は私は心行からしか生まれて来ないと思う。
 それはいわば私は楽な信心と言う風に今日は申しました。成程婆ばしゃんがあげんして一生懸命参りなさるが、楽しゅうしてこたえん。帰って来りゃもうぷうっとしちゃる、帰ってくりゃもう不足不満ばっかり言いござる。例えばまあそうでもなかろうけれども、そういう様な事では、とてもあげん一生懸命参ってから、こん位ならばとても私段出来んと云うごつなって来る。子孫が続かん子孫に続かん。
 神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来る、みんなが願って止まないところは、ここなんです。しかもそれが子供に孫にも伝わって行く、そういう信心が三代と続いたら、神の気感に適うた氏子じゃと、ここでは言って居られます。神の気感に適う、はあ婆しゃん、生きてる時には、そうにゃおかげ頂かっしゃったけれど、子供どんが信心がなかった。
 孫達がついちゃ行かん。それでは如何にその信心が熱心ではあったけれど、神の気感に適うた信心ではなかったと云うことになる訳なんです。神の気感に適うた信心、それは天地の大恩を知って、その天地の大恩に、例えば報い奉ると云う、神恩報謝の生活、それは有難い勿体ないの生活である。そういう生活そういう信心を目指す。そういう信心ならもう難しい事はない。もう見やすいみやすいと云うが、それこそ有難うして有難うしてだから、楽な信心でしょうが。それこそ家業を勤め勤めするがよいであります。
 今日私取分けここのところをですね、難しい信心を例えばして、おかげを表しきらなかったらそういうそれこそ、特にほんなら教会子弟の中に、お父さんの信心は継がん、もうこの教会には居らんと云う様な教会が多い。何とかと云うて手立てが打たれておる様な状態、何故なのか。余りにもそりゃ一生懸命に教会長でもあるからには、修行しよんなさろうけれども、こん位な助かり方だったら、おかげだったら、とても子供がようついちゃいかんと云うこと。
 そこで私は、いよいよ天地の大恩を分かって有難い勿体無い、いわゆる自分自身が真に救われ助かっておると云う様な諦めではない。それが溢れる様な喜びが人が助かって行くと云った様な働きになって来なければならない。そういう信心を例えばいわゆる楽な、云うなら楽しい信心をさせて頂いて、おかげを頂きよるなら、誰でもついて行かん筈が無い。そういう信心を子供にも孫にも教えておかなければならん。信心ちゃこんなに有難い、有難いだけじゃなく、こんなにも楽しいと云う事を。
 そこでですその例えば内容としてです、例えば一つのそこに難儀見る問題が起こったのをです、誰々さんがこうじゃったから、あれがこうしたからと人のせいにでも持って行く様なことではですこれはいよいよ信心を間違えて居る、大恩を知らない天地の働きを知らないのも程があると云う様な感じが致します。今日私はここんところを特に頂いとりましたからね、私共があれがああしたから、これがこうだからこうなったと云った様な事ではない。あれのせいじゃない。
 例えば痛い痒い思いをすることでも、難儀な問題なら問題でも誰のせいじゃない、息子のせいじゃない孫のせいではない。信心をさせて頂いて居る者のせいとしてです、ここのところを取分け一つ取り組んで頂きたいと思う。そこから天地の大恩を分からせて頂くがよい。神愛を悟らせて頂くがよい。しかも私共が願うことはです本気で願わなければいかん。年勝り代勝りのおかげを願わなければいかん。願うからにはそういうおかげの頂けれる信心を分からせて下さいと願わなければならん。
 その信心を今日は楽な信心と云う風に申しました。所謂楽しい信心でないと、それを人が真似しようともしなければ、頂こうともしない。そりゃそうかも知れんばってん、とてもあんたどんが真似はでけんと云うことになる。だから愈々楽しさ一杯そういう有難さ一杯、そう云う信心を自分の身につけていく事の為に、愈々天地の大恩を分かるではなくて悟らにゃいけん、神愛を悟らにゃいけん。そういうおかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。